五界姫譚 黒冥螺

開始宣言
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「…………。眼が覚めたか」
 重たい瞳をこじ開けると、目の前にあったのは幼い少女の顔だった。肌は白磁のように白く柔らかく、節目がちな紫の瞳に睫毛が影を落としている。頬の両側を縁取るのは長い黒髪で、左右で一房ずつ、耳の前に皮紐で結び垂らしている。残りは背のほうに流れているようだ。
 俺は少女を知らなかった。
「……だれ、だ……」
「先に名乗っておこうか。我が名は黒冥螺。良く覚えておおき」
「こく……めいりゃ……」
 喉ががさついて、ろくな声が出やしない。砂を丸ごと飲んだみたいだ。さらに、少女の口調は幼いくせに威圧的で、それが様になっているのが不思議なのだが、気圧された俺は彼女の名乗りを反芻することしかできなかった。
「ここ……は、俺は……?」
「お主、己の名程度覚えておろう? 此方(こなた)においても、お主の良く知るところであると思うておるが、如何か?」
 身も蓋もないとはこういうことか。遠慮も容赦もなくぴしゃりと言葉を叩きつけられ、俺は口をつぐんだ。身を起こすと、呻き声が漏れた。身体が重い。餓鬼の頃、風邪をひいて寝込んだ後のような倦怠感。一苦労して吐息をつくと、俺は自分の置かれた状況を把握しようと試みた。
 俺の記憶は、最後が物騒な場面でぶつりと途切れてはいるものの、健在だ。見回してみれば、確かにここは知っている場所で、それは記憶が途切れる直前までいた場所のごく近くだった。農業用具が所狭しと置かれた小屋。
 そして俺の服は、ちょうど心臓のあたりがべりべりと破れている。その下に覗く肌には、薄く残った引き攣れ。何かで貫かれた、跡だ。見ていて気持ちの良いものではない。俺はそこに、手を当てた。まだ自分が生きているのだという、実感を味わいたかった。
 そこから響く鼓動は、なかった。
 愕然として、俺は動きを止めた。少女の冷ややかな視線を感じる。だが俺は、動けなかった。心臓が、動いていない。鼓動が、ない。俺は、動いている。鼓動がないのに。何が起こったのだろうかいや覚えている名前も知らない誰かが奇声を発しながら血塗れた剣を俺に向けて突き進んできてその切っ先はちょうど心臓の真上に触れて押し貫かれて俺は死んだのではないのかならば何故こうして生きているいや死んでいるのだいや生きているのだ一体これはどういうことだ?
 頭蓋の内側が真っ白になったように、俺は思考を停止した。ぼんやりと少女に視線をやる。少女は淡々と俺の視線を受け止めた。
「俺は……」
「ん?」
「いきているのか? しんでいるのか?」
「……ふん。阿呆な」
 絞り出した問いに、少女はやはり淡々と答えた。
「お主が生きておるのか死んでおるのか、とは重要なれどどうでも良かろうが」
 何だか今俺は、とんでもないことを言われたような気がしたのだが。少女の冷たい物言いが、逆に俺の脳を叱咤したようだった。冷たくなっていた頭に、血が通い始める。いや、実際に血が流れたかというとそうではないのかもしれないが、言われてしまうと確かにどうでも良いような気がしてきてしまっていけない。
 どうでも良いどうでも良い、と諦めかけた俺は、少女の吐息を聞いた。
「まあ、教えてやらぬこともないが」
「は……?」
「うむ。お主がどんな反応を返してくりゃるのか、見物だのう」
 くっくっく、と喉の奥で笑う様子は、少女というよりは老婆を連想させる。外側は子供のなりをしていて実は長生きをしている、もしかしたら人間ではないのかもしれない。そんな考えがふっとよぎり、今更ながら鳥肌がたったように思えた。
 最初から、おかしいのだ。俺は、死んだはずだ。意識がブラックアウトする直前、ああ、俺は死ぬんだと考えている自分が頭のどこかにいた。胸に食い込んでくる冷たい切っ先も感じた。ぶちぶちぶち、というような音も。なら何故俺はここにいる?
「お主は死んでおったのう」
 少女は言った。
「お主、兵士としてでも戦に出ていたのではないか? それはもう綺麗に、心臓を貫かれておった。刺さっておったのは、ほれ、其方(そなた)の」
 そう指差す先は確かに、あの剣だった。刀身を赤く染める血は拭われることなく、伝って木の床に溜まっていた。
「今は、というと、生きても死んでもおらぬのだろうな。確実なことは分からぬ。他人(ひと)に訊いたところで返ってくる答えは皆異なろう。言うなればお主は、生きた死体か」
 少女は嗤い、膝で俺ににじり寄ってきた。何をする気かと身構えると、細い指を俺の鼻先に突き付けた。口端を吊り上げ、それによって象(かたど)られた形が三日月と半月を行き来する。
「我がお主を生き還らせた――過言ではあるまい。よって、我がお主の主となろう。お主は我に仕えるが宿命。良う心得よ、のう?」
 死人が生き還るなどとはにわかには信じがたいことだが、この身に起こったことを考えてみるにそれが一番妥当なのではないだろうか。俺は自分自身を納得させた。無理矢理、ではない。何となく、眼が覚めた時から思い当たっていた事柄だった。それに、この黒冥螺と名乗る少女ならば、そんなことでさえもできるように思われた。人でない力でもって物事を進める、強いて言えば、魔女。
「お主が望むのであらば――我はお主の記憶を抹消することも可能。如何(いかが)する?」
 面白がっているような表情で少女が尋ねてくる。俺は首を横に振った。記憶が消えたところで、何が起こるだろうか? 少女の操り人形……それは、たとえ記憶だとか意思だとかがない状態になったとしても、自尊心が傷つけられるような気がする。それは勘弁願いたい。
「ふむ……ならば、お主の記憶は消さずにおこうぞ。代わりに新たな名を授けよう。かつての名は名乗るでない。既にお主は我が配下にあるが故」
 魔女が宣言した。
「お主の名は“黎”――黒を意味し、冠する黎明は夜明けの訪れなり――」
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